東南アジアのメガシティ、バンコクやジャカルタ、ホーチミンの喧騒の中に身を置くと、日本の飲食業界で叫ばれている「危機」の輪郭が少し違って見えてきます。
現在、日本の外食シーンでは原材料費の高騰、人件費の底上げ、そして止まらない家賃の上昇が経営を圧迫しているという悲鳴に近い声が溢れています。
かに数字だけを見れば厳しい状況に違いありません。
しかし、一歩外へ目を向け、新興国のダイナミズムと隣り合わせの「理不尽」を肌で感じると、日本という市場がいかに恵まれ、かつ特異な進化を遂げているかに気づかされます。
今回は、逆に東南アジアの視点から見た「日本市場の本当の価値」について考察します。
### 「安定的」という、何物にも代えがたいインフラ
まず、私たちが当たり前だと思っている「社会の安定性」です。
東南アジアの多くの国々では、政府の政策一つで翌日からルールが激変し、昨日まで営業できていた場所が突然封鎖されるといったリスクが常に付きまといます。
インフレ率も数パーセントの微増どころではなく、通貨価値の乱高下によって輸入食材の価格が数倍に跳ね上がることも珍しくありません。
それに比べれば、日本のコスト高騰は、予測の範囲内で推移する「緩やかな変化」に過ぎません。
政府や金融システムに対する信頼が担保されているからこそ、数年先の事業計画を立て、融資を受け、投資を回収するというスキームが成立します。
この「予測可能性」こそが、実は世界屈指の贅沢なビジネス環境であることに、我々はもっと自覚的であるべきでしょう。
### 「カスハラ」への決別と、店側の毅然としたプライド
最近、日本でもようやく「カスタマーハラスメント(カスハラ)」という言葉が定着し、行政や大手企業が対策に乗り出しました。これは大きな進歩です。
東南アジアのローカルマーケットや高級店を観察していると、店側と客側の関係はもっとフラットです。
というより、店側が非常に強い。「嫌な客には売らない、入れない」という意思表示が明確です。
スタッフを守るために、理不尽な要求を繰り返す客を断固として排除する姿勢は、ビジネスの持続可能性を考えれば極めて合理的です。
日本もようやく、過剰な「お客様神話」の呪縛を解き始めています。
スタッフを疲弊させるだけの客を切り捨てる勇気を持つこと。それは、店が守るべきブランドと、共に働く仲間への「誠実さ」そのものです。
### 「チップなし」で献身的に働く、驚異の労働クオリティ
そして、海外から来た視察団や起業家たちが一様に驚愕するのが、日本の現場スタッフの質です。
欧米や東南アジアでは、サービスには「チップ」という直接的な対価が伴うのが通例です。
あるいは、給与以上の仕事は「自分の仕事ではない」と割り切るのがスタンダード。
しかし、日本のスタッフはどうでしょうか。
チップというインセンティブがないにもかかわらず、お客様のグラスが空けば即座に気づき、テーブルを整え、おしぼりを最高のタイミングで差し出す。
この「献身性」は、世界基準で見ればもはや「信じられない」レベルのホスピタリティです。
長年言われ続けてきたことではありますが、現場の最前線で働く彼らのプライドと規律正しさは、日本の外食産業が誇る最強のソフトパワーと言っても過言ではありません。
### 「スーパーパーソン」が支える、日本のハイブリッド現場
さらに特筆すべきは、日本独自の「マルチタスク能力」です。
海外、特に分業制が徹底されている国では、ホールはホール、キッチンはキッチン、レジはレジと、自身の役割以外には一切手を出しません。
料理を運んでいる最中に隣のテーブルの汚れに気づいても、清掃係を呼ぶのが彼らのルールです。
対して日本の現場では、一人のスタッフがホールを回しながらオーダーを取り、時にはドリンクを作り、レジをこなし、キッチンの状況を見てフォローに入ります。
この「スーパーパーソン」たちの集合体が、日本の店舗運営の効率性を極限まで高めているのです。
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### まとめ:我々が今、向き合うべきこと
東南アジアの混沌としたエネルギーは確かに魅力的ですが、日本の飲食市場が持つ「安定性」「スタッフの資質」「運営の密度」は、他国が数十年かけても追いつけないほどの蓄積があります。
原価高騰や人手不足を嘆く前に、足元にあるこれらの「武器」をどう再定義し、適正な価格(バリュー)に転換していくか。
今、日本の飲食店に求められているのは、自分たちのサービスの価値を過小評価せず、誇りを持って世界に、そして市場にぶつけることではないでしょうか。
かつて日本が外食先進国として憧れられたように、この苦境を乗り越えた先にある「進化した日本式経営」は、再び世界のベンチマークになるはずです。
編集長コラム
2026.05.22
東南アジアの「混沌」から紐解く日本市場の異様と希望――我々が手にしている“武器”の真価とは

菅野 壮紀(かんの たけのり)
APPLILAB SINGAPORE CEO
飲食業界向けITソリューションを提供するAPPLILAB SINGAPOREのCEO。
シンガポールを拠点に、東南アジアを中心とした世界の飲食トレンド、Food Tech、店舗経営の最前線を定点観測している。
現地のリアルな事情に精通し、日本の飲食企業が海外の知見を取り入れるための架け橋として活動中。
https://applilab.sg/
























